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2024年05月05日
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曇天 その4
2009年04月17日
「己の罪に世をはかなむくらいなら、端から殺めねば良かったのだ」
「焦がれていたと、求めていたと、恋うていたと、そんな下らぬ事がいいたいのではございません。 ただ確かに失くしてからそうと判るものがある、それに気付いたのはあたしだけではありますまい」
多聞が何を言っているのか男にはわからない。
「瞼に浮かぶお蓉の笑みだけがあたしの心の支えでございました。
おのれの不甲斐なさに吐き気を覚え、寝床から飛び起きた時、いつもあの女の顔を思い出し息をついたものでございました。
あたしの中に居るあれは、いつも変わらず笑っていてくれた」
なぜあやめたか、それは旦那も承知のはずだ――多聞は口の端を濡らしながら声を荒げる。 男の差し出された刀は、炎の熱にうっすらと赤みを帯びていたが、その切っ先はいっかな動く気配がなかった。
「ひと月前のあの日、入り用で町に降りたあたしの前を偶然通り過ぎたお蓉が、もうあたしの知る女ではなかった事を、知ったのでございますよ。 ただそれだけ、たったそれだけの事で、あたしは失くした」
「ゆえに、殺めた」
「なぜ会うたのか、おのれの知る女ではないと判りながら、判ったが故に声を掛けた。 なぜ、そうしたのか、なぜ、女の云うままに身を重ねたのか、なぜ――」
なにゆえに――多聞はもはや飄々とした死神めいた姿を崩し、ただの人となり下がり狂ったように問い続けた。
「なぜだ」
多聞の狂気につられ、男の声に怒りが乗った。 刀の切っ先が上がり、男はすうっと立ち上がる。
刃はその鞘を多聞の体と定めたように殺意を込めて右に引かれた。
「失くしたからでございます」
静かに多聞は顔を上げた。 死を前にしたせいだろうか、先程の狂気も飄々とした素振りも、一切が抜け落ちたその姿は何に例える事も出来ぬ。 薄墨で描かれた男の姿、むしろそれははじめの印象に近かった。
「得難いものなら諦めもしましょう、はじめから何もなければ求める事もありますまい。
ただ、確かに在った、それをよすがに生きて来た。 だが失くした、取り戻すために女を殺め、そして――
――あたしは結局全てを失くした」
もうあたしの中のあの女は笑んではくれぬ、ただただ、むごたらしい女の顔が、掻き消しても掻き消しても、瞼に焼き付いてはなれない――まるで枯れ木が軋むように多聞は笑った。
男はもう何も言葉も無く、ゆっくりと刀を振り上げる。
求め、捨て、未練たらしくも再び求め、求めたモノがもうこの世にないのだと気付いた、ただそれだけの事だと多聞は云う。
だが身勝手な――と笑う事は出来なかった……怒る事も、憎む事も、同じに男は出来なかった。
ただひとつ事を思うて生きていただけだ。 本当はとうに終わっていたものを、それに気付けば今日を生きるもおぼつかぬと、たったひとつ事に固執し生にしがみついていた、ただそれだけの事。
男の刃が天を指す。 厚く重なった雨雲は、まだその上の澄んだ夜空を隠し、煌々と照る月を隠し、夜を黒々と塗り潰して去る気配がない。
「なぜ、仇を――」
枯れ木が軋む。 男は振り上げた刃をまだ降ろさない。
炎にあぶられ赤味を帯びた刀身が、夜の風になぶられゆっくりと冷えて行く。
仇を討って――お蓉の顔は悲しげに笑んで男の内に。
全てを失くした――多聞の顔が目前で歪む。
夜を映す刃金の先が、焚火の炎を受けて鈍く光った。
男の腰が力を溜め込んでぐっと下がる。
多聞は静かに瞼を閉じた。 瞼の裏の暗闇には、またあの女の惨たらしい顔が映り込んでいるのだろうか、多聞の眉根は僅かにしかめられた。
男は大きく息を吸い、即座にそれを小さく吐くと、振り上げた刃を渾身の力を込めて振り下ろした。
おなじじごくにおちるがいい――嘲笑う声が聞こえた気がしたが、男はその意味を求める事はしなかった。
失くすのが怖ろしければ初めから得ねば良いのだ。
骨に突き立ち抜けぬ刀を鞘ごと放って、男はおのれのつくった人の残骸に背を向けると、陰鬱な顔のまま一歩を踏み出した。
だがその足は地を踏みしめる事はなく、暗い虚空に飲まれて消えた。
========
⇒end
ちょっとわたしストーカーみたいですねぇ(笑)
この作品、とても心に残りました。
クロージングイベントの4時間が終わって
帰り際脳裏にふとよぎった絵は、このお話でした。
そして、そんな声を他にも聞きました。