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2024年05月06日
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曇天 その2

2009年04月17日
 
 
 ――あたしが死んだら、仇を取ってくれる?
 
 お蓉はよくそう云っては男を困らせた。 どこぞの酒場で出会った、歳の頃なら二十七八の年増女、夫も子供もなく店を持つでも身を売るでもないその女は、しかし何処で稼ぐのか大層な羽振りの良さで男に酒や食い物を振舞い、いつしか共に暮らすようになった。

「誰ぞに命を狙われる心当たりがあるのか」

 幾度目かに、男はそう尋ねた。 別に惚れた女というわけでもないそれが、何処で野たれ死のうが、誰に殺されようが一向に興味はなかったが、度々云い募られれば気にはなるのが人の心情であろう、そんな言い訳めいた事を思いながらであったと、男は記憶する

――女が身一つで買えるだけの恨みを買って来たんだあたし、男からも女からも買えるだけありったけ。

 お蓉はそう言って笑った。 ひどく悲しそうな笑顔だった。

「その顔が瞼にこびりついて離れない」

 男はぽつりとそう云った。 多聞は何を思ったか笑った。

「何が可笑しい」

 これは失礼を、多聞は笑いながらそう云った。
 雨の音はもう緩やかなものに変わり始めている。 通り雨は黒々と闇に沈む山の夜を一層冷やし、じとりとした嫌な湿気で周囲を包んでそのまま去ろうとしていた。
 
 多聞は焚火に餌をやる。 炎は投げ込まれた枯れ枝を食んで更に紅く燃え上っていた。

「誰にでも媚を売る、尻の軽い女でございましたなぁ。 けれど、底抜けに優しい。 悲しい顔や疲れた顔をしている人間を放っておけない、ただそれだけの女だった。 男として、亭主として、そんなちっぽけな女一人慈しんでやれずにどうする、あたしはそんな風に思っておりました。

 だが、辛かった。

 優しく笑いかけてくれるお蓉が、今日は一体どんな男に情をかけたのか、どんな風に声を上げたのか、そう思うと腹の底からどうしようもない気持ちが生まれて来て、それを抑える事が出来なかった。
 もどかしく、情けなく、恨めしくさえ思った。 誰を、何を……お蓉を、おのれを。」

 多聞のこぶしは強く握られていた。 男はただぼんやりとそれを見ていた。
 同じだ――半眼に瞼を閉じた表情はそう言っているように見えた。 いや或いは、多聞の言葉が何ひとつ判らぬ、そう言っていたのかもしれない。

「旦那は、あたしがあれを殺したとお考えでございましょう」 
「嗚呼」 
「何ゆえにそう思われました」
 
 男は緩く首を振る。 確信はあった。 あったがこれこれしかじかと口にする事が出来ない。
 多聞の云う様にお蓉の周囲には多くの男が在った。 商家の者から喰いつめ者、妻のある者無い者、身分ある武家の者でさえ、お蓉は誰にでも身をゆだねた。 町の誰もがお蓉を好き者と笑った。 蔑んでいる者も憐れんでいる者も居たのだ。

だが、あれを優しい女と思うている者は誰ひとりとして居なかった。
 
 おのれと目前のこの男を除いては。

「なぜころした」

ふっふっふっと多聞は笑う。 男の手が刀の柄をぎゅっと握る。 仇を討たねばならぬ。 その言葉が繰り返し頭に響く。

――あたしが死んだら、仇を取ってくれる?

 女の声がこだまする。 あの時の女の顔が瞼いっぱいに広がって男は足元に虚空が広がったかのような失墜感を覚えた。

「なにゆえに、仇を?」

 多聞の唇が笑みの形に歪んで見えた。 いや、それは苦痛を耐えているのかもしれぬ。 男の唇もまた不可思議な形に歪んでいる事に気付いているのは多聞のみ。

「会わねばようございました」

 多聞の唇から、苦しげに吐き出された声には流れ出る血のひと色が乗っていた。 刀の柄にかけた男の指が引き攣った。

「あの女と別れてから、あたしは御覧の様に山に籠って一人で暮らしておりました。 人ひとり慈しむ事の出来ぬ男の居場所にはここいら辺りが丁度良い、なに、これしきの事、命を断つほどでもない、人を苦しめるろくでなしなどごまんといる、それに比べればおのれはましな方だとも思っておりました。
 ほとぼりが冷めたらまた町に下りよう、町に下りて今度こそ、身持ちの固い女と穏やかな幸せを掴もうと……ですが、」

 あのおんなのえがおが、わすれられなかったのです―― 肩を揺らして笑う多聞の姿から目を離し、男は顔を上げた。 雨はいつの間にか通り過ぎていたが、どんよりとあつい雲が天を覆い、ひとかけらの光さえ見る事は出来ない。


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