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2024年05月05日
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曇天 その3

2009年04月17日
 
 
 喉元に湿った空気が這い上る。 身の内に残る湿気に、男は一つ咳をした。

「なぜ、ころした」
「雨が、行ってしまいました」

男の声など聞こえていない様に多聞は口を開く、男もまた多聞の言葉など聞えぬ様に坐したまま抜刀した。 多聞は指一つ動かさず、男の抜いた刃の切っ先を見つめている。

「云え、云わねば殺す。 何ゆえにお蓉を斬った」

 お蓉の亡骸はひと月前の朝方、大川のほとりに無残な姿で浮いていた。 左の肩から袈裟掛けに一太刀。 腕がちぎれるほどの刃の痕が、女の死より他の何を示しているのか男には全く判らなかった。 ただ判ったのは、酷い苦悶の表情を浮かべた女の顔は、おのれの知る女の顔ではなかったと云う事だけだ。

「あのような女、おれは知らぬ」

 刃をかざしたまま男は呟く。 炎をつきぬけた刃の先にぐっと顔を近づけ、笑う多聞の顔は醜く歪んでいた。

「何が可笑しい」
「旦那を笑ったのではございません」
「では何をわらう」
「あたしが笑ったのはあたし自身でございます」
「なに」
「殺せ」

 突如多聞の瞳が爛と輝く、男は気押され差し出した刃を僅かに引いた。

「きさま、」
「殺せ、あたしを」
「やはりきさまが」
「そうしてあんたも」
「お蓉を斬った」
「同じ地獄に堕ちるがいい」
「なぜ 殺した」
「なぜ仇を討つ」

 互いが互いを見合ったまま、同じ答えを求めて問いを放つ。 けれども返される言葉は最早ない。
炎は変わらず緩やかに揺れ続け、男の刀の中ほどをあぶっている。

「あのような女、あんたはしらぬとおっしゃるが、あたしの知るのはもはやあの苦悶の顔のお蓉ばかりでございますよ」

 ぱきり、ぱきり、多聞の手がおのれの指そっくりの枯れ枝を折った。
 
「旦那の瞼に浮かぶお蓉の顔は、まだ笑んでおりますか」

 下らぬ問いだ。 それに応える義理は男にはない。 いつであっても楽しげに優しげに、悲しげに笑う女、それが男にとってのお蓉であった。

「さあ、もうようございましょう。 お察しの通り、あれを殺したのはあたしでございます。 だがお陰さまで酷い代価を払わねばならなくなりました。 ひと月前のあの夜以来、あたしの中のお蓉の顔は死ぬ間際に見せた恨みの顔ばかり。
 あたしはもう生きているのが苦しゅうてなりません。さあ旦那、女房の仇が此処におりますぜ、抜いた刃の鞘が此処に」

 言い募る多聞の声を何処か遠くで聞きながら、「女房ではない」意固地に云い張り、男は静かに瞼を閉じる。

「さあ、はよう」

 月も星も見えぬ夜の闇、目前の炎の揺らぎは閉じた瞼を通して男の鳶色の瞳に光と影を映した。 その向こうから死神の如き声がする。

「はよう、あたしを」

 女の顔はまだ確かに笑んで男の内にあった。

 仇を――

 男の身の内にぽっかりと口をあけた暗闇から繰り返し聞えて来る声は、女の声か男の声か、もうそれすらも判らぬと云うのに、決して止む事はなく繰り返し繰り返し男をせかすのだ。

「殺して下さい」

 男はゆっくりと目を開く。 多聞は変わらず目前で、酷く疲れた顔をして炎に枯れ木を投げ入れていた。

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